ところで、その日本の平和憲法はいま空文化していないか、現体制を支えているのは結局ぼくたち自身ではないか、などと考えるときぼくは、沖縄の「即時無条件全面返還」を願いつつも、祖国の退廃に対して何もし得なかった本土の人間の一人として、性急に「沖縄を返せ」といえないでいる。
東松照明「日本国・沖縄県」


……いくさのまえで、そして、圧倒的な武力のまえで、私たちはまったく無力で、ただ「殺すな」と必死に叫ぶよりほかにない。「殺すな」という一語には、そうした自分の無力の認識が裏うちするものとしてあった。
小田実『「難死」の思想』
摩文仁、平和祈念公園(糸満市)
摩文仁、平和祈念公園(糸満市)
ひめゆり平和祈念資料館(糸満市)
壺屋やちむん通り(那覇市)
第一牧志公設市場(那覇市)
那覇市
那覇市
普天間基地(宜野湾市)
嘉数高台公園(宜野湾市)
コザゲート通り(沖縄市)
糸満市
米須山城海岸(糸満市)
米須山城海岸(糸満市)
私にとって「十五年戦争」は、決して身近な出来事ではない。
私の生まれた時には既に終戦から半世紀近くの時間が流れ、いま、気が付けば80年という歳月が過ぎようとしている。
そして、日本本土で暮らしてきた私には、沖縄戦の最中にひとびとが直面した生と死や、米軍の占領統治を経て今なお基地が集中する現実は、更に遠くにある。
だからこそ、私はそれらを知識として多少学んでいても、本当は何も知らないのだ、という思いに沖縄で駆られていた。それは頭だけではなく、身体の問題でもあると思う。
かつて「べ平連」を牽引した小田実は、敗戦をくぐり抜けた一人ひとりの生ま身のからだのうちにあるものを問い、それは「殺すな」という気持ちに違いないと記した。小田によれば、それは武力を前にした私たちの無力と表裏一体であり、「戦後の日本の世の中の論理と倫理のひとつの基本」を形づくるものであった。
だとすれば、いま「殺すな」は、それほどまでの切実な実感に裏打ちされて、私たち自身の身体の中に息づいているだろうか?
78年前、多くのひとが逃げまどい、傷つき、命を落とした摩文仁の海は、静かに波を寄せては返していた。透き通った海を眺めていると、空の向こうから、戦闘機の編隊が頭上高くを飛び去ってゆく。
沖縄から帰ってきてもまだ、その光景が忘れられない。

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