「自由意志というのは、未来に対してなくてはならない希望だ。自分には、何かが出来るはずだと、人間は信じる必要がある。そうだね?しかし洋子、だからこそ、過去に対しては悔恨となる。何か出来たはずではなかったか、と。運命論の方が、慰めになることもある。」
「そうね。……よくわかる、その話は。現在はだから、過去と未来との矛盾そのものね。」
平野啓一郎『マチネの終わりに』​​​​​​​
うちにありて、一日、一日と間断なく紡がれてきた物語がある。
それは必ずしもわたしやあなたが、意志して紡ごうとしてきたものではない。
既に、その状況の一部となってしまっていることもある。
そのなかで、わたしたちはそれぞれが何かを選び取り、何かを捨て、また何かを背負って生きてゆく。
そとにいるとき、そうした個々の存在によって背負われてきた何ごとかもまた、確かにそこに現前しているのだという事実を、ともすると忘れてしまいそうになる。
かつて誰かが言っていたように、それはいつもわたしたちに対して開かれているのに、目には見えない。
しかし、日々の、取るに足りないひとつひとつの風景がこんなにもいとおしく、やさしく、時としてひどくこの胸が掻きむしられそうな気持ちになるのはきっと、そうやって「うち」と「そと」が出会い続けているからなのではないだろうか。
たとえば、人が自然にハッと目をやり、しばしの間立ち尽くしてしまうときの、あのえもいわれぬ感情の湧出のように。
その瞬間、「うち」も「そと」もないような感覚に襲われる。ただ、すべてがすべてと感応し合っている。ある、調和した、ひとつのちいさな世界のなかで。
この世に生まれいづるどんな人も、きっとそれぞれの切なさを抱いて生きているのだと思う。
だから私は、何度でも、この場所に光を見つけたい。
それでも世界はうつくしく、そして、生きるに値する場所であるのだと。
いまは桜の木の下で眠る、祖父の思い出に寄せて。
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